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洗礼者聖ヨハネの誕生  St. Joannes Baptista C.     大祝日 6月 24日


 聖書によれば主イエズス・キリストは「我誠に汝等に告ぐ、女より生まれたる者の中に、洗者ヨハネより大いなる者はあらず」(マテオ11・11)と仰せられたとある。およそ聖人は多しといえども、天主の御口ずからかかる讃辞をかたじけのうした果報者は彼ヨハネの外あるまい。そして又実際彼は比類なく偉大であった。何となれば彼は主の公生活に就いてつとに民衆に語った故に預言者であり、己が言行を以て数多の人々を改心せしめたが故に使徒でもあり、正義の為に邪悪を咎めて殺害された故に殉教者でもあったからである。のみならず彼はイエズスの親戚にも当たっていた。

 洗者ヨハネの生涯は聖福音書に記されている。それによれば彼の父ザカリア及び母エリザベトは日頃天主を畏れる義人であったが、夫婦の間に子宝のないのを悲しみ、多年その為願掛けをしていた。ところが二人とも老境に入って、もう子の出来る見込みもないと思われる頃に至り、エリザベトは懐胎した。誠に聖書にもある如く「ああ高大なるかな、天主の御智慧!その判定の覚り難さよ、その道の極め難さよ」と言わねばならぬ。
 その次第を述べれば次の如くである。ザカリアはユダヤ教の司祭であったから、慣例によりくじを引いてある日神殿に入り香を焚く役目を務めた。信者等は集まって皆外で祈っている。所がザカリアがふと香台の右を見ると、そこに天使が立っていたから彼は思わず怖じ恐れた。するとその天使が言うには「何も恐れずには及ばぬ。汝の祈りは聴き容れられた。妻エリザベトは一子を産み落とすであろう。汝はこれをヨハネと名づけるがよい。その子は汝を始め数多の人々の喜びになるであろう。彼は主の御前に偉大で、ぶどう酒その他酔う物を飲まず、胎内にある時から既に聖霊に満たされるであろう。又成長の暁には多くのイスラエル人等を天主の御許に帰らしめ、預言者エリアの如き精神と能力とを有し、主の先駆者となるであろう。これは主の為に人民を備え、先祖の心を子孫に立ち帰らせ、不信者を義人の智識に立ち帰らせる為である」との事であった。それに対しザカリアが己も妻も年老いた所から、子の出生を疑うような口吻を漏らすと、天使は更に語を継いで「我はこれらの福音を汝に告げん為にわざわざ天主から遣わされたガブリエルであるが、汝はわが言葉を信じなかった故に、罰としてその子の生まれるまで口がきけなくなるであろう」と言った。信者達はザカリアの長い間神殿に留まっているのを怪しんでいたが、出てきた彼の口が利けなくなったのを知ると、何か神殿内で異常なことがあったのを察した。ザカリアが務めを果たして家に帰ると果たして妻エリザベトは間もなく懐妊したのであった。
 ザカリア夫婦の喜びはいうまでもないが、ナザレトに住む聖き乙女マリアも同じ思いであった。というのはある日大天使聖ガブリエルが彼女に顕れて、その救い主の御母となる事を告げると共に、彼女に年老いた親戚エリザベトの懐胎を知らせ、天主の全能の証拠としたからである。愛深いマリアはそう聞くと黙過する事が出来ず、さっそくよろこびかたがた手伝いにエリザベトの許に赴かれ、それまで口のきけなかったザカリアの口が開け舌が解けて物言い始めるのをご覧になった。


 さてエリザベトの子は天使のお告げの如くヨハネと名づけられたが、両親の気質を受け継いで極めて敬虔に生い立った。彼は預言された如くヨルダン河畔の荒れ野に行き、己が使命の準備として驚くべき難行苦行の生活を送った。その使命とは外でもない、人々に救世主の来臨を知らせ、その用意をさせる事である。彼は身にらくだの毛衣をまとい、腰に革帯を締め、いなごと野蜜とを常食としていた。
 その内に天主に定められた時が来ると、彼は公に教えをのべ始めたちまちの間に世に知れ渡った。彼が熱烈火の如き言葉を以て人々に改心を勧め、悔悛の印としてヨルダン川で洗礼を授けたのは、29歳か30歳の頃であったろう。それはティベリオ皇帝在位の15年でポンシオ・ピラトがユダヤの総督であり、アンナとカイファが司祭長を勤めていた時分であった。そしてヨハネのこの行為は預言者イザヤの「荒れ野に呼ばわる者の声ありていわく、汝等主の道を備え、その小道を直くせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山丘はならされ、曲がれるは直くされ、嶮しき所は平らなる路となり、人皆天主の救いを見ん」という言葉に適うものであった。
 彼の説教は実に偉大な感化力を持っていた。その為改心して償いを為した者がどれほどあったか解らない。実際大抵の人々は彼を待望の救い主と思い込んだ位であった。しかしそれに対して彼は「自分はただ一介の先駆者で、わが後に来たり給う方こそ真の救い主である。自分はその方の履き物の紐を解くにも足りない」といって極力その誤解を正すに努めた。



 やがて彼にとって身に余る面目の日、神人イエズスがその宣教に先立ち、衆人の模範として彼から洗礼を受けられる日は来た。その時ヨハネは遠くから近づき給う主の御姿を一瞥したばかりで、早くも周囲の人々に「見よ天主の子羊を!見よ世の罪を除き給う者を!」と告げ知らせた。そして主がいよいよ傍らに来て洗礼を望み給うや、ヨハネは恐懼措く能わず「私こそあなたの洗礼を受けねばならぬ身でございますのに」と申し上げたが、イエズスが「それでも我等が正しき事をことごとく果たすのは当然故に・・・」とたって御所望になるので、彼も感激にわななきつつ洗礼をお授けすると、急に天開け聖霊鳩の如く主の上に降り、同時に天から声して「これこそわが心を安んずるわが愛子である」と響き渡ったのである。
 その喜びの日から幾程もなく、ヨハネの受難の日が巡って来た。当時ガリラヤ分国の王であったヘロデは、己が兄弟フィリポの妻ヘロデアデを娶る不義をあえてしたので、ヨハネが面を冒して諫言した所、王は烈火の如く憤って彼を牢獄につなぎ、折を見てこれを殺そうとしたが、ただその結果彼を預言者と崇め尊んでいる人民達が自分から離反せぬかを恐れて、逡巡していた。
 所がヘロデ王の誕生日の事である。ヘロデアデの連れ子でサロメという娘が席上で踊り、いたく王の気にいったから、彼が「何でも欲しい物を取らせよう」と言うと、サロメは母に言い含められて「それではあの洗者ヨハネの首が戴きとうございます」ととんでもない難題を持ち出した。王はこれを聴くや憂いに面を曇らせたが、列席する人々の手前約束を破るもいかにと、遂に人を遣わして監獄内でヨハネの首を刎ねさせこれを盆に載せてサロメに与えたのであった。
 さればヨハネは一種の殉教者というべく、従ってその死は天主の御前に聖いものであり、今に至るまで彼が世の尊敬をあつめているのも偶然ではないのである。彼にちなんでヨハネの霊名を受けた人々は、古来おそらく数百万を下らぬであろう。そしてその中にマタの聖ヨハネやネポムクの聖ヨハネなどのような聖人も少なくない。また洗者聖ヨハネを保護の聖人と仰ぐ教会は世界の至る所にあり、彼の名を頂く修道会も二、三見いだされる。聖地エルサレムへの巡礼の保護や、病者の看護(殊に戦時における)を使命とするヨハネ修道会の如きもその一例である。


教訓

 洗者聖ヨハネは、恐れず信仰を表し正義を守る者の為に、この上もなく立派な鑑といえよう。何となれば彼は行く先々でイエズスを救い主と宣言して人々をその御許に導こうと努め、また悪を認めては王者といえども容赦なくこれを糾弾したからである。